まほろばで君と

喪に服した平成令和の転換期

 母が昨年6月30日、母の姉である叔母が12月30日に亡くなった。平成30年は身近な死を味わった年だった。

そして今年、平成から令和に元号が変わった。個人的に、平成が終わったことは色んな終わりを意味した。

 

 男は本来的にマザコンだという。

娘としての気持ちは分からないが、母と息子の関係性と、父と娘のそれとでは違うような気がする。

私の母への思いはとても複雑で、プラスとマイナスの差がものすごく大きい。もしかしたらそれも、不可逆的に心の土台が壊れた要因の一つかもしれない。

以前にも話したが、私は昔から頭がおかしいと思っている。理由は複数あるが、そのひとつが母に対する感情の矛盾、潜在的恐怖心、潜在的愛情である。

 

 中学生の頃までは、ほっぺたをくっつけてくるようなベタベタした愛情表現をされたが、その一方で、慢性的なストレスがたまっていたんだと思われるが、辛辣な否定や不当に押さえつけようとする発言もあった。そしてそれを母自身は自覚していなかった。

「考えずにモノを言う」 のが母の大きな特徴であり欠点だった。それで実弟の養母(親戚の叔母)との折り合いも悪かった。そういう発言をする時は思いやりが全く感じられず、表情も何かにとりつかれたように、明らかに異様なものになる。それを聞いた子供がどう思うか、少し考えたら分かりそうなものが多かった。母の発言が良い時と悪い時とで極端なことが、母への感情の矛盾を作りだしたといえよう。

人は身近な誰かに対して矛盾した感情があるのを自覚すると苦しくなり、折り合いをつけることが永遠のテーマとなる。少なくとも私はそう感じて生きてきた。それは逃れられない自分との闘いである。相手の人格を変えることはできない。いつ決着がつくか分からない闘い。

 

 母は大腸癌の末期で手の施しようがなく、本人と家族が癌と知ってから2週間後に誰にも看取られずに亡くなった。病院から連絡があったのは、巡回していた看護師が異変に気付いて医師を呼び、死亡確認をした後だった。

普通、癌と診断されてから亡くなるまで時間的猶予があるものだが、母に関しては文字通り、「あっという間」だった。だから、感情が全く追い付かなかった。それもあって、その後のお通夜や告別式の打ち合わせは妹に任せた。

母の死後しばらくは仏壇に向かって、生前同様、怒りの感情が爆発してた。亡くなる2年ほど前から、過去のことで母に怒りをぶつけてた。それについて後悔はしていないし、今も心の中でのたうち回るほど怒りが込み上げる。

 

 ただ、そんな自分がこれまで生きてきたことに、「自分の人生は何だったのか?」という思いが常にある。生きたくても生き続けられない人がいる中、大変不謹慎だが、私のように死にたくても度胸がなくて生きているだけの人間もいる。生まれ持った性格から、色んな知識を得るのが好きで知的好奇心を満たしてきたが、自分自身の「生きる力」には反映されていない。

知識というのは、学校で習うものだけでなく、人のために活かせるものも含まれてこそだと思うから、いくらでも吸収することがある。進学、就職、結婚が有利になるような自分に利益をもたらすために得た知識だけでは、人と関わっていく知恵や、喜怒哀楽を分かち合うための知恵は得られない。人は人とつながることでしか生きてゆけない。だから、知識も感動も共有することが幸せにつながる。私がブログを書く理由もその共有にある。そういう思いが私は特に強い。魂から出ているのかと思うぐらいである。

 

 母に対して、「早く死にたい」と言うのが私の昔からの口癖だったが、亡くなる1年ぐらい前に、「死ぬんやったら私が死んでからにして」と言われた。親より先に死ぬのは何よりの親不孝と聞くし、その心境は母の「良い時」の思考や感情を考えると、息子として十分理解できる。

 

 誰かが、「人は親を助けるために生まれてくる」と言ってた。でも、そうだとしたら、それが自分の喜びにならない限り、何のための人生か分からなくなる。私はこんないい歳になっても自分の喜びにはできていない。

平成から令和に変わった今年、肺癌の手術をして痴呆が進んだ父、私が生まれた時から家庭放棄で、散々泣かされて苦にしてきたのに二人で同居しているその父を見ると、数十年にわたって抱いてきた両親へのネガティブな感情は、実体のない泡だと感じて、心が空虚になる。

 

 感情は存在するようでしないのかもしれない。