まほろばで君と

脳内お花畑になる心的事情

 スピリチュアルな話に「脳内お花畑」という言葉がよく出てくる。非現実的でふわふわした能天気な思考回路で思慮が浅い状態をいう。スピリチュアルの場合は間違った方向に導くことから批判の対象になる。僕もそういう人間に嫌悪感がある。

 

 ただ、自分がこれまでそうなったことがないのかと言えばそんなことはない。未成年の自分はかなりの脳内お花畑人間だった。そんな自分を思い返して何故そうなったかを考えると、苦にしている家庭環境(親)のことを忘れたいというのが無意識あったからだと思われる。それを思うと批判するだけじゃなく、慈愛も必要なんじゃないかと考えるようになった。

もちろん正常とはいえないレベルで非常識な人や、重い精神疾患で支離滅裂な思考の人もいる。しかし、中には事情がある人もいて、非現実的で能天気な思考に走るのは、現実がとても辛くて自分を保てないから、という場合もあるかと思う。そういう事情がある人にとっての脳内お花畑な自分は人生の通過点で、「正気」に戻ることが出来る。

耐えられないほど辛い現実から逃避するための「安全地帯」として脳内お花畑があるとしても、少しずつでも自分自身と対峙していって、そこから脱出するために学んでいくことが必要となる。そのためには苦言(耳の痛い話)にも耳を傾けて、俯瞰で自分を観察して客観的に考えないといけない。それが自分を正しい方向に軌道修正する唯一の方法といえる。

 

 「好き嫌い」と「正しい間違い」は違う。好きで居心地のいい場所が正しいとは限らないし、本当は正しいのに厳しいから嫌いと感じることもあるだろう。我(エゴ)が強いからそうなるのであって、感情的にならず真っ白な状態で受け入れて、厳しく感じる言葉に答えを見出そうとする姿勢が重要で、それが謙虚さにつながる。弱い自分と謙虚な自分とを混同しがちだが、口を出さず大人しく振舞うのが謙虚なのではない。エゴを捨てて謙虚になるのは簡単なことではなく、己を知ることが不可欠となる。自分のことが見えて初めて謙虚になれるのだ。

 

 つまり、謙虚な人間は脳内お花畑にはならない。謙虚でいるということは、地に足を付けて現実が分かっていることと同義であり、辛い現実を直視してこそ謙虚な自分になれるのである。

自分を追い詰める必要はないが、ノーブレーキ状態(思考せず走るだけ)でもいけない。心のバランスを取りつつ自制して、俯瞰的視点を忘れず普遍的な人生哲学を学んでいくことで心理的安寧を図ることが出来る。そしてそれは、僕が生涯をかけて目指すものである。 

 

 

本文とは関係ないですが、CD発売後すぐに買って聴いてた曲です。

「Fallin' Love Again」鈴里真帆(1995)

「ファニィ」CMソング


鈴里真帆 Fallin' Love Again~カメリアダイヤモンド系ファニーCM曲フル~

 

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