「生きる」とはどういうことかについて、2009年7月に書いたレポートの一部を省略したものを掲載します。
近年、クオリティ・オブ・ライフ(QOL)という言葉が欧米から入り、日本の医療でも使われるようになった。
医療関係者の間では生活の質、倫理学者の間では生命の質と訳されることが多いが、この二つの訳語のニュアンスはかなり異なる。
前者は、患者の幸福感や満足度を意味するが、後者は、延命するかしないかに関わる深刻な判断をする際に用いられるのである。
生命の神聖さは、「人の命は尊い」という信念を表わしている。この生命の神聖さという信念に基づいて、主に次の三つの倫理原則が主張されてきた。
第一に、少なくとも正当防衛の場合を除き、人為的に死を招いてはならない。
第二に、ある人の命が値打ちのあるものかどうかを第三者が問うことは許されない。
第三に、ある人の生命の価値を他の人の生命価値と比較することは許されない。
なぜなら、人の命はそれぞれ他と代えがたい尊さをもつと信じられているからである。
安楽死には、死期が近い者に対して、耐え難い苦痛を除去するために死をもたらす処置をとるという観念がある。
一方、患者の死の権利に基づいて、あらかじめ本人の意思を記しておく文書、リビング・ウィルによって無駄な延命措置をせず、人間としての尊厳を保ちつつ、死を迎えることを尊厳死という。
資源は、ある目的のための手段であり、これを複数の目的の間で分け合うことを資源の配分という。資源の配分が問題となるのは、私たちがやりたいと思うことをすべて実行するには資源が足りないからであり、これを資源の希少性という。医療資源の配分についていえば、誰が医療を受けるのかを決めることであり、場合によっては、誰が生き残るのかを決定することなのである。
一方を選択することで実現できると予想される成果の大きさを、その選択の結果、実現できなくなる成果の大きさと比較した上で、資源配分を行うことを機会費用という。機会費用について、二人の患者がいる場合に、医師は、ある結果に至るまでの経緯や過程の倫理性、すなわち、手続き的正義を問題とする立場と、最終的な帰結だけについて考慮する帰結主義の立場とに分かれる。
つまり、どこに道徳的な意味を見いだすかによって、医療を受けられる患者が違ってくることがある。
また、効率性と公平性のどちらを重視するかで見解が分かれ、両者の間で調停が必要となり、このような事態を効率性と公平性のトレードオフと呼び、資源配分の際に鍵となる非常に重要な概念である。
疾病を診断、治療を行う局面をキュアと呼び、患者に対して精神的なサポートを与える局面をケアと呼ぶ。
前者は、疾病の除去、つまり、病気を治すことを目標とし、後者は、疾病に侵された患者のQOLを向上させることを目標とする。
さらに、キュア偏重の医療は、人間よりも疾病を重視してしまう。この場合の健康とは、「単に疾病のない状態」を表わす。これに対し、ケア重視の医療の場合には、健康とは、「人格である患者の自律が保たれている状態」をいう。
カーパーは、キュア偏重の医療をシェリーの小説に出てくるフランケンシュタイン博士に喩えた。
フランケンシュタインは高度の科学的知識を用いて怪物を造ったが、彼は、自ら造りだした怪物を愛さなかったし、ケアもしなかったのは、道徳的に人間関係を強化するケアの倫理がなかったからである。
また、徳の倫理学は、道徳的な善行を行う人間の能力(徳)を育成することを重視しており、道徳律の倫理学は、道徳規則の遵守を重視する倫理学に対抗するものである。
以上のことから、「生きる」ということは生命の質を豊かにし、積極的に健康な日々を過ごすことである。
レポート原文1535字